稟議書に載らなかった数字たち
前回は、APIサブスクリプションと自社構築の損益分岐点についてお話ししました。月間2〜3億トークン、請求書で800万ウォン前後という水準を挙げたところ、ある担当者が会議室でこう言いました。「それは分かった。で、これを1年間回すのに、いったいいくら追加でかかるんですか」
この問いこそが、稟議の本当の関門です。導入費は見積書の1ページ目に書かれていますが、運用費はどこにもありません。しかも運用費は、たいてい導入費より長く、そしてより静かに出ていきます。
AI導入費ではなくAI運用費
2026年の各種ベンチマークが、おおむね似た数字を指しています。初期構築費の15〜25%が毎年、維持費として出ていく、というものです。韓国国内のSI見積を見ても大差はありません。3〜5年の視野に広げれば、デプロイ以降のlifecycle作業が全TCOの40〜60%を占めます。一部のリサーチでは3分の2にまで達します。
問題は、この数字が見積書のどこにも計上されないという点です。なぜでしょうか。一つは慣行です。韓国のSIは長らく「構築」を売ってきて、「運用」は別契約や毎年の更新に回してきました。もう一つは、予測が難しいこと。まだ作ってもいない機能の維持費を、どう見積もるのか。
そのため決裁者のもとに届く文書には、開発費だけが大きく書かれ、その横に「※運用費は別途」という脚注が一行つきます。この脚注が3年経つと、全体費用の半分になります。
四つの持続コスト
運用費を分解すると、おおむね四つに分かれます。どれか一つだけで済むプロジェクトはほとんどありません。
(a) インフラ・API利用料の膨張。最初はパブリッククラウドが有利です。初期トラフィックが予測不能なので、従量課金が安全なのです。ところが利用量が安定してトラフィックが一定水準を超えると、話が逆転します。ZDNet Koreaが今夏指摘したように、GPU利用料・データ転送・ストレージ費用が重なり、パブリックのほうがかえって割高になる転換点が訪れます。サーバー・メモリ・半導体価格の上昇基調が、この曲線をさらに急峻にしています。結果として一部の大企業では「プライベート・オンプレ回帰」が起きています。移し替える移行費用まで含めれば、実質的に隠れたコストです。
(b) 観測・評価ツール。LLM可観測性市場は2026年の27億ドルから2030年に93億ドル、CAGR 36%と予測されています。この数字がピンとこなければ、自社の見積に置き換えてみればよいでしょう。LangfuseはFree tierから、有料が$29/mo、エンタープライズが$2,499/年。Arize AXはFree(Phoenix)と$50/mo。小規模であればLangfuse Self-Host + Helicone + OpenAI Usageで月$50以内から始められます。ただしコストの本丸はツールそのものではなく、これをセットアップし、ダッシュボードを毎日読む「人の時間」です。それこそが維持費の本当の中身です。
(c) 再学習とファインチューニング。再学習はスケジュールではなくシグナルで回します。つまり「四半期に一度」ではなく「ドリフトが検知されたら」です。実務ではおおむね四半期に一度は走ることになります。小規模なファインチューニング1回のGPU費用は$20〜$50程度に収まることもあります。しかし正直に言えば、その費用が問題になったプロジェクトを見たことはありません。本当のコストはデータ準備・ラベリング・検証にかかる人の時間です。GPU請求書よりも、ラベラーや検証者の人件費のほうが数倍になるのが普通です。2026年には自律的な再学習パイプライン(検知→再学習→検証→デプロイ)がトレンドとして語られますが、「人はポリシーだけ確認する」最小構成であっても、セットアップに2〜3か月はかかります。
(d) 追加開発・機能拡張。これはおそらく見積書で最も計上されない項目です。初期スコープになかった機能が、デプロイ後3か月以内に5つは要望されます。「この機能一つ足すだけ」「お客様がこれを聞いてきて」の五つです。それぞれは小さな開発ですが、五つ重なると誰か1人の上半期がまるごと消えます。
「小さく終わる」が高くつく理由
最初はこう考えました。「小さく始めれば運用費も小さいはず」だと。実際には違いました。上の四つは規模とは無関係にすべて発生します。観測ツールはトラフィックが少なくてもセットアップが要り、再学習はデータが少なくても検証手続きは同じで、インフラには最小インスタンス料金があります。
結果として、小規模導入でも「スケールと無関係な固定維持費」が毎年出ていきます。損益分岐が遅く来る理由でもあります。小規模だから安いのではなく、小規模であるほど維持費比率がむしろ大きくなるのです。この部分を稟議書に載せないと、2年目に事業部長が「これって、そもそもこれくらい掛かるものでしたか」というメールを書くことになります。
コンプライアンスという新しい脚注:EU AI Act
2026年8月、EU AI Actの高リスクシステム条項が発効しました。post-market monitoringとcorrective actionの文書化が義務です。韓国のSMBには無関係に見えますが、EU顧客のデータを扱ったり、欧州市場にサービスを載せた瞬間に該当します。ドリフト監視を「やっておくとよいもの」から「やらなければ契約が結べないもの」へと押し上げる条項です。先述の(b)観測・評価ツール費用を「オプション」から「固定費」に変える条項でもあります。
稟議書には開発費しか載らない
3年TCOの40〜60%が運用から出ているのに、稟議書には開発費しか載りません。この慣行が変わらない限り、プロジェクトは初年度に黒字と報告され、3年目に「想定外の費用」として再報告されることになります。見積を受け取る決裁者であれば、文書最終ページの「※運用費は別途」を素通りせず、「で、それはいくらですか」を必ず問うべきです。その答えがなければ、見積そのものが未完成です。
サブスクリプション対自社構築の損益分岐については前回でお話ししました。今回はその計算式に本来入っているべきなのに、たいてい抜け落ちている項目のお話でした。
次回は、この総コストの上にROIをどう数字で乗せて稟議書を通すか、指標セットのお話です。その場で、今日扱った運用費項目がなぜ指標設計の出発点になるのかが、自然につながっていきます。
社内でこの総コストのフレームを組んでいる最中であれば、5years+に初期見積のレビューをご依頼いただくのも一つの方法です。稟議書に上がる前の段階で、開発費と運用費を一枚にまとめます。